鮭のまち村上

「鮭のまち」として知られる新潟県村上市。
その調理法は100種類を超えるといわれ、
身はもちろん頭や内蔵、中骨や皮に至るまで
捨てることなく味わいつくします。

村上の人々はなぜ、それほどまでに鮭を大切にするのでしょうか。

村上と鮭

越後村上と鮭

鮭は京の都ヘの献上物

その歴史は古く、平安時代には遠く京都の王侯貴族に
三面川の鮭が献上されていたことが記録に残っています。

古代、越後からの税は「鮭」でした。

平安時代の中期法典「延喜式」には越後国が納める物品が記されています。
調・庸として鮭、中男作物として鮭内子并子・氷頚、背腸
年料貢進御贄として楚割鮭(すはやりざけ)、鮭児・水頭・背腸
を責進しておりました。

 

村上鮭と三面川

村上の三面川と鮭

鮭川としての三面川

朝日岳を流れの源とする村上の三面川の清流は、全長41キロ。
越後平野をゆったりと流れ、ここ村上で日本海に注ぎます。
村上の鮭を語るに越後村上の「三面川」をさけては通れません。

青砥武平冶と種川の制

江戸時代には村上藩の主要な財源となっていた鮭。
しかし江戸時代後期になると、だんだん不漁になっていきました。
そんなとき、村上内藤家の藩士・青砥武平冶が
世界ではじめて鮭の「回帰性」を発見します。

回帰性とは鮭が生まれた川に戻ってくることをいいます。

帰ってきた鮭が安心して産卵できるよう、
三面川に産卵のためのバイパス、すなわち「種川」を作って
鮭の産卵に適した環境を整えようと考えました。

産卵条件として川底が小砂利で鮭が産卵床が作りやすい、
生んだ卵を外敵から守れる、
水温が安定し新鮮な水が供給可能な湧水のある所
などが考慮されたと思われます。

村上藩ではこの青砥武平冶の考えを採用し、
青砥武平冶の設計/指示により鮭保護増殖のため河川整備を行い
「種川」を完成させました。

村上藩がこの河川工事に取り掛かったのが宝暦13年(1763年)、
完成は青砥武平冶没後6年を経て、寛政6年(1794年)ですので
実に三十年以上をかけた大工事となりました。

これはいわば世界初の「自然ふ化増殖システム」と言えます。

青砥武平冶以来、「種川の制」によりサケは次第に増え、豊漁がつづき、
村上藩に納める運上金も最初は40両程度でしたが
1800年頃には1000両を超えるまでになりました。
これが村上藩の財政に寄与いたしました。

このようにして村上は「鮭のまち」として
全国的に知られるようになりました。

青砥武平冶

「種川の制」を考案し村上の鮭文化の礎を築く

鮭の子

明治に入り鮭産育養所を設置し、
その収益金の一部を育英基金として教育に役立て、
多くの人材を世に送り出しました。
この育英制度で進学した人たちは「鮭の子」と呼ばれました。

明治11年アメリカの孵化技術を取り入れた日本初の人工孵化に成功。
減少していた鮭の遡上数も、明治17年に73万7千378尾を
記録するまでに増えました。
これは、単一河川では日本の最高記録になっています。

獲れた鮭から採卵をして、白子をかけ受精させ、
育養所と県の孵化場で育てたり,
県内の各孵化場に受精卵を送るなど、
村上の三面川は文字通り県内の鮭の親川と言えます。

村上の三面川の鮭漁

村上の鮭を語るに越後村上の「三面川」をさけては通れません。

鮭と越後村上うおや

米が不作の年には鮭によって命を救われてきた村上の人々。
一尾の鮭を大切に思い、活かしきろうとさまざまな料理法を開発しました。

塩引き鮭、焼漬、酒びたし…

そうした先人の知恵と工夫を受け継ぎ、
【うおや】では伝統の手法でひとつひとつ丁寧に仕上げた鮭製品を
作り続けています。

【越後村上うおや】は寛政年間の創業。
初代・上村助五郎が鮭の元売業を起こしたのが始まりです。

代々の村上城主が深く崇敬していた羽黒神社の
「江見啓斎翁日誌」には
文政元年(1818年)九月十九日に助五郎が
その年の漁業権を落札したこと、
翌日には網子7、8人と共に羽黒神社に参詣し
祈願したことが記されています。

以来二百年。
鮭を愛し、こだわり続けて、現在九代目。
皆さまには長きに渡ってご愛顧いただき、
中には親子二代で買いにこられる方も。
本当にうれしい限りです。

これからも村上ならでは、
【越後村上うおや】ならではの美味を
全国の皆さまにお届けしてまいります。
村上にお越しの際は、お気軽にお立ち寄りくださいね!